::: はじめに :::
「米徳」と「蓬莱泉」は、 70年のおつきあい
平成16年に関谷醸造が豊田市黒田町(旧稲武町)に「吟醸工房」を建設。ここは当店から車で5分ほどの距離。米徳酒店と関谷醸造とのつながりが、これまで以上に深くなってきています。
そんなご縁もあり、今回当店ホームページを大幅に改定するにあたって、「蓬莱泉販売専科」としました。
関谷醸造は、奥三河の地で、地元の若者を酒造技術者として育て、高品質の酒を造り続けるために、機械を積極的に導入した斯界のパイオニア。
「伝統の酒造りの技を未来に引き継ぐための合理化」だといいます。企業理念の中に、「農業への取り組み」を掲げていることも特色のひとつ。地元農家から休耕地を借りて、稲作にも取り組んでいます。急速な高齢化の進む奥三河で、地域と共に歩む姿勢を大切にしている企業です。

酒の好みは、時代で変わる
― 「日本酒の可能性を柔軟に追求した高品質な酒造りを目指す」と、常々言っておられますが、具体的には?
時代が変わると酒の好みも変わってきます。戦後の食べるものがない時代には、味の濃い酒が好まれました。食の豊かさを楽しめる現代ではすっきりした味わいの酒が受け入れられやすい。漬け物やイモの煮ころがしを肴に飲む酒と、多彩な食材をさまざまな調理法で供する食卓で楽しむ酒は違うということです。
飲み手の嗜好や食の環境に合わせて酒質も変化させていきます。お客様の声を聞いたり、世相を観察して、どんなお酒が好まれるかを考えて、酒造りの計画に反映させていきます。
もう少し付け加えると、「日本酒の可能性の追求」とは、清酒の製造に限ったことではなく、発酵・醸造の世界の多彩さを関谷醸造ならではの手法と視点で切り拓いていきたいとも思っています。
― 機械化に積極的なのはどういう理由から?
運搬作業などの単純労働・温度制御などに機械を導入して、労力の軽減を図ります。その分の人手は、製造工程に細やかな目配りをするゆとりを生み出すことになり、人の手を掛けないといけない仕事に十分な手を掛けることができます。
また、機械化によって緻密に集積された酒造データを次の酒造りに生かし、再現性のある酒造りを続けることができます。
機械化と手作りは相反するものと捉えられがちですが、重要な工程にしっかりと手を掛けるために、機械を道具として使いこなすことは不可欠だと思います。
製造量の45%が吟醸酒
全国の日本酒の生産量のうち、吟醸酒の生産量は、約6%です。関谷醸造では、製造数量の45%が吟醸酒です。米の旨味をしっかりと引き出した高品質の酒造りを指向し、消費者の希望に応え続けてきた結果、今の比率になったということです。
吟醸酒は本醸造酒に比べて造るのに大変手のかかるお酒です。原材料費も掛かるし、発酵に要する時間、作業の手間など、どれをとっても手間暇がかかる。
では、なぜ吟醸酒を造るのかというと、高い品質で飲み手を満足させる酒を造りたいからです。当社では、最もスタンダードな特別本醸造の別撰でも吟醸酒並の60%の精米をした米を使用しています。
吟醸酒は35-45日の仕込み作業
まず、精米に時間がかかります。純米大吟醸の「空」の精米歩合は40%です。40%というのは、玄米の60%を削り落として、米の芯の部分だけにするということです。玄米を40%まで磨くのには約3昼夜、精米歩合35%の「吟」では4昼夜かかります。
精米を終えた米は、精米工程で発生した摩擦熱を下げ、水分量にばらつきがないようにするために2〜4週間寝かします。
精米は、酒質を大きく左右する重要な工程です。そのために当社では、本社、吟醸工房ともに精米機を導入し、全部の原料を自家精米することにこだわっているのです。
さらに洗米。「限定吸水」といっていますが、洗米、吸水は秒単位で時間を区切って行うこともある、厳密さを要求される作業です。酒米は、甑(こしき)で蒸すのですが、水を吸わせすぎると蒸し上がりがべたべたになってしまいます。そうなったら次の工程でいくら頑張ってもそのぶんのダメージは取り返せません。
以下、麹造り、酒母立て(もとだて)と、仕込み作業が続きますが、どの工程にもデリケートな 目配りと品温管理が要求されます。
通常の本醸造では、仕込み作業から25日くらいで発酵を終えますが、低温でじっくりと発酵させる吟醸酒では、35日から40日の日数がかかります。その間、目的の酒質になるように発酵状態を見守り続けます。
機械はデータの集積が得意
酒造工程で自動化できるところはコンピュータ制御にしています。コンピュータの導入によって緻密なデータ集積ができます。そのデータを処理して、次の酒造りに生かすのが人の判断です。
五感をフルに活用することはもちろん大切ですが、経験と勘で行ってきた酒造りをデータとして共有し、次の酒造りに生かしていくことの繰り返しで酒造りの技が次の世代に伝わっていくのです。
当社には日本中でうちにしかない機械もあります。関谷醸造の目指す酒造りに使える機械がなかったら自社で開発します。開発には機械メーカーの協力があったことはいうまでもありません。
―吟醸酒を手がける、しかも 機械化をするに至った理由は?
父から「お前、あとをやれ」と言われたのが、昭和54年、34歳の時でした。バブルがはじける前のよい時代でした。東京から醸造機械のメーカーの社長がやってきて、うちの機械でこういう酒ができると、見本の酒を提げてきた。さっそく、杜氏と東京に出かけ、いろいろな酒をきき酒してみました。
それまで灘の大手の酒などをきき酒していて、自社の酒の出来も悪くはないと思っていましたが、社長の教えてくれた酒は、、今まで味わった酒よりも確かに良い。「うちもこんな酒を造りたい」と思いました。これが吟醸酒を手がけるきっかけになりました。杜氏が優秀な人で、それから2年でうちでも満足のいく吟醸酒ができました。
清酒のピークは昭和48年
― その頃すでに日本酒にかげりが出てきていましたよね
清酒の消費量は昭和48年がピークでした。全国で1000万石が飲まれていた。白雪、月桂冠などの灘の酒がもてはやされていた時代です。それが今は400万石。昨年の国内の消費量は10年前と比べると、56%にまで落ち込んでいます。
消費者の好み、価値観も多様化してきました。洋酒、ビール、焼酎、ワインなど、日本酒以外のアルコール飲料も生活の中に定着してきて、清酒が酒の代名詞だった時代ではなくなっています。しかし、飲み方ひとつにしても、燗酒か冷酒かという選択だけでなく、お酒によって美味しく飲める温度帯をきめ細かく選んだり、酒肴や酒器との相性を楽しむなど、お酒の特徴に合わせて楽しむ人が増えてきました。
多様な楽しみ方ができるのは日本酒のすぐれた特質だと思います。今後消費量が増えることはなくても、美味しいお酒を楽しみたいという人は増えるのではないかと思います。

― 地方の酒蔵が次々と消えてゆく中、関谷醸造が残ったのはいち早く吟醸にシフトしたからですね。
ここで、関谷醸造の創業について教えて下さい。
うちは創業が元治元年(1864年)。庄屋をしていた武左衛門という人が、隠居をして酒造りを始めたと言われています。年貢米の余剰分を酒造りに回し、それを地元で売っっていたようです。田口は三河と信州をつなぐ伊那街道の宿場町で、人の往来も盛んだったそうです。地場の酒として、地元で消費される程度の量を造っていたのではないかと思います。

―稲武も中馬街道の宿場町でした。農村歌舞伎や農村文楽は江戸末期から明治にかけて始まったものが多いともいいます。幕末の中山間地は活気があったことでしょう。
「米徳酒店」は、祖父がどういうわけか高浜から稲武に流れてきて、酒、米、製パン、それにトラックを買い入れて、山のものを町に、町のものを山に持ち帰って売る商いなど、いろいろなことをやっていたのが始まりです。関谷さんの所の酒を扱うようになったのは、この祖父の代からだと聞いています。
関谷醸造では、昭和18年頃に稲武の旧家古橋家が戦時下の企業統合で酒造りを止めたのを機に、その権利を譲ってもらいました。当時は酒蔵ごとに製造石高を決められていましたから、その分の製造量を増やすことができました。おそらく米徳さんはそれまで古橋さんでお酒を仕入れておられたのを、うちに切り替えられたのでしょう。それ以来のおつきあいでしょうね。
関谷醸造社長に迫る! 後編へ

事前に書面による許可を受けずに、この記事の一部または全部を頒布または複製することは、その手段または形態に関係なく一切不可と致します。
但し、リンクについてはその限りでなく、自由にリンクして下さい。
|